プロフィール


水野友貴プロフィール写真

1983年2月19日生まれ

郵政大臣賞、関東郵政局長賞、学習研究社賞等多数(以上全て文章)

英語検定準1級、TOEIC815点、漢字検定2級、秘書検定2級、普通自動車免許

読書(山崎豊子、松本清張、東野圭吾、村田沙耶香、金原ひとみ、凪良ゆう)、 英国の刑事・ミステリードラマ鑑賞、ディズニー全般

執筆 

継続は力なり 

母のおにぎりと漬物、梅干し、紅茶、珈琲 

「葬送のフリーレン」、「動物のお医者さん」、「世界でいちばんやさしい音楽」、いくえみ綾の作品全般  

 「ショーシャンクの空に」「レインマン」「ロードオブザリング」

現在の主な役職・所属団体等

  • 千葉県議会議員 3期目
    (無所属系会派「千葉新政策議員団」代表、総務防災常任委員会所属、千葉県議会武道部所属)
  • 千葉県視覚障害者福祉協会評議員
  • 我孫子ライオンズクラブ(元会長)
  • NPO法人(知的障がい者グループホーム)監事
  • 千葉県立我孫子・湖北特別支援学校後援会顧問
  • 手賀沼水環境保全協議会顧問
  • 千葉県環境審議会委員(水環境部会担当)
  • 一般国道356号整備促進期成同盟顧問
  • 松戸健康福祉センター運営協議会委員
  • 地元自治会副会長
  • 我孫子市防犯指導員
  • 我孫子市青少年相談員 
  • AKB会(我孫子駅北口美化委員会)
  • NPO法人アルバトロスヨットクラブ 

生い立ち

  1. 誕生~LA時代
  2. 学生時代
  3. 社会人時代
  4. 市議時代
  5. 県議当選・現在~

誕生~ロサンゼルス時代

千葉県我孫子市で誕生~米国カリフォルニア州LA時代
我孫子市で生まれ、米国に移住

千葉県我孫子市根戸に生まれ、幼少時代は祖父母の住む白山で育ちました。

水野友貴の七五三写真
水野友貴の小学校入学写真

小さな身体で生まれた私は、保育器に入り、重度のアトピー皮膚炎も患い、虚弱体質な子どもでした。
医学の進歩がなければ、私は今ここにいないでしょう。

幼稚園卒園と同時に根戸から白山に引っ越し、我孫子市立第四小学校に入学しました。幼稚園時代の友だちが一人もいないまま入学した私は、毎日学校に行っても泣いてばかり…。
また、太陽を浴びてはいけなかったことから、夏でも長袖長ズボンの幼い私は、そのことを指摘されるたびに傷ついていたことを今でも鮮明に覚えています。
たくさん傷ついたからこそ、差別やいじめは絶対に根絶したいと思っています。

また、祖父は我孫子市立第二小学校の校長を務めるなど、東葛地域の各学校で校長をしていたことから、学校現場のあり方についてはよく家庭の話題になっており、教育政策に力を入れております。

小学3年生のときに、父の転勤でアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスに移住することに。
もちろん一言も英語を話せませんでしたが、両親の教育方針により日本人学校ではなく、トーランスにある現地校RIVIERAエレメンタリースクールに編入(ちなみにトーランスは柏市との姉妹都市提携をしています)。
日本の勉強は週末にロサンゼルス補習授業校あさひ学園に行き、帰国後に日本の勉強に遅れないようにします。

現地校では右も左もわからない中で、生の英語と文化を学び、イースターやハロウィンなどさまざまなイベントを経験しました。
授業はディスカッション方式で、フレンドリーな環境。まさに海外ドラマのような学校生活でした。

水野友貴子ども時代のハロウィン写真
水野友貴アメリカで過ごした子ども時代の写真

米国では里親制度も定着しており、様々な家庭環境の友人ができたことや多種多様な人種が混在する現地校での経験は、私が日本で政治活動を行う上で、貴重な体験となっています。

水野ゆうきアメリカ時代の卒業アルバム写真

何よりも、異文化を体感したことで多角的に物事を捉える力、そして自立心を培いました。
集団行動のない米国では「個」が尊重されます。団体行動をしなくても、組織に頼らなくても、自分の力や考えに責任を持って生きていく主体性は現在、私が無所属で活動していることに繋がっています。

現地校ではたくさんの友たちもでき、自宅のRedondo Beachから1分のビーチにてローラーブレードで遊んだり、プールで思い切り泳ぎ、のびのびとした毎日を過ごしていました。

両親は私を米国内の様々な場所へ連れていき、グランドキャニオンやヨセミテ、ホワイトサンズなど圧巻の景色を目の当たりにし、地球の大自然に感動しました。

水野友貴子ども時代グランドキャニオンで撮影した写真

そして、地球という存在自体に関心を持つようになり、環境問題を大学で学ぶこととなります。

現地校を卒業後、インターナショナルスクールへ
学年で女子1人!?

現地校の小学校を卒業後、ロサンゼルスにあるインターナショナルスクールに編入し、なんと学年で女子1人という厳しい環境下で過ごしました。

しかし、帰国後は米国とは全く異なる価値観の「性差」に悩まされることになり、私が政治の世界で「男女共同参画」を積極的に取り上げる大きな契機となりました。

こうした海外での経験は文章におさめ、17万人の応募の中から郵政大臣賞を受賞いたしました。
自分の言葉が人に与える影響を肌で感じたとともに、文章を書いたり、読んだりする楽しさ、言葉の面白さを知った米国での中学時代でした。

郵政大臣賞受賞時の水野ゆうきの写真

だからこそ、私は議会における一般質問や議会報告、SNS等はすべて自分の言葉で書き、発信しています。

当時、私のことがロサンゼルスの新聞やラジオでも取り上げられていたときはとても驚きました。ラジオで自分の書いた文章を読んだときはとても緊張した記憶があります。

学生時代

日本に帰国~高校時代
中学2年で帰国、茗渓学園に編入

中学2年で日本に帰国し、茨城県私立茗渓学園中学校の編入試験に合格するも、やはり長期間米国にいた日本の勉強のロスを取り返すのは大変!毎日必死で勉強しました。
勉強だけでなく、茗渓学園名物でもある4km遠泳も完泳し、剣道の寒稽古、真冬の座禅もやり遂げたことで体力のみならず精神力も養いました。

校則に従い、同じ制服を着て、団体行動をする、という習慣に慣れるまで最初は時間がかかりました。しかし、「郷に入っては郷に従え」の精神で、日米両国の良いところを自分の中に落とし込むことで生き方を柔軟にしていくようになりました。

すべての努力や経験は糧になり、困難に立ち向かうためにあらゆる体験をさせてくれた両親に感謝しています。

剣道をする中学時代の水野友貴の写真

茗渓学園では運動にも励み、相手を思いやること、練習を怠らないこと、本番に向けてのメンタルやフィジカルトレーニングなどを学ぶことができました。
また、人を全力で応援することの大切さも茗渓学園で得た大きな財産となっています。

茗渓学園時代の水野ゆうきの写真

茗渓学園ではStudySkillsの集大成として高校2年生が「個人課題研究」を行います。
これは「17才の卒論」とも呼ばれ、各個人で興味を持ったテーマを独自に準備し、課題指導者(各教科教員)の指導のもとで、1年間にわたり生徒自身が考え、調査・研究を行うというものです。
私は米国で少なからず感じた人種差別問題を取り上げました。

多くの書物の中でもアリス・ウォーカーの『カラーパープル』を読んだことで黒人女性の差別の歴史を学び、性別の違いや肌の色の違いが招く差別問題への意識が更に高くなりました。

高校3年になると受験を控え、浪人をしたくない私は日本の勉強が遅れながらも受験一筋の生活に一変。
日本の詰め込み教育や暗記中心の受験に疑問を持ちながらも、女性が生き抜く力を養うことができ、日米の文化や政治を研究できる女子大学を強く志望するようになりました。

2001年茗渓学園高等学校卒業。

2001年津田塾大学入学
津田塾大学卒業生ロールモデル120名に選定

水野友貴の学生時代の浴衣写真

茗渓学園を卒業後は、津田塾大学学芸学部国際関係学科に入学しました(国際法・政治コース)。

アメリカでの経験が功を奏し、英語クラスは飛び級し、資格取得とアルバイトに励みました。
特に印象に残っているアルバイトは三つ子のベビーシッター。子どもの無邪気な言動に幸せをもらっていました。
同時に、子育ての大変さを知ったのもこの仕事がきっかけでした。
買い物に行くにしても、ご飯を作るにしても、寝かしつけるにしても、遊ぶにしても、3人同時に目を離さずにいなくてはならないそのプレッシャーは想像を絶するものだと感じました。
(今は双子の甥と姪の育児をサポートしています。)

アルバイトで貯めたお金で様々な国に旅行に行きました。
イタリア、フランス、スイス、オーストラリア、中国、韓国など友人とともに各国の文化を垣間見ることができ、異文化体験を通じて多角的な視野と柔軟な思考を獲得しました。現地の人々や環境と直接触れ合うことで、人生を豊かにする「心の財産」を築く機会となりました。

卒業論文は『環境ホルモンが人間に与える影響』。
米国で知った環境問題を軸に私たちの身近なモノがいかに私たちの健康に影響を及ぼしているかを研究し、A4、100枚程度の論文を執筆。この研究は議員活動にも反映されています。

水野友貴とピサの斜塔の写真
水野友貴の津田塾大学卒業式の写真

津田梅子女史が創立した女子英学塾から120年。(2020年当時)
津田塾大学はあらゆる分野で女性の開拓者やリーダーを輩出してきました。
しかし、いまだに男女格差を示す日本のジェンダーギャップ指数は2025年時点で148カ国中118位と低迷し、G7最下位が続いています。特に政治(125位)と経済(112位)の男女格差が深刻です。まちづくりを行う大きな一翼を担う政治の世界で、女性や子育て世代の声を反映させていくことが重要です。

2005年3月に同校卒業。
水野ゆうきは津田塾大学120周年記念に際し、津田塾大学卒業生のロールモデル120名に選ばれました。

社会人時代

超就職氷河期時代を経て、民間企業に入社
大手企業で役員秘書を経験

私の時代は「就職氷河期」でもあり、採用すら行わない企業がたくさんありました。
「日本の企業で日本の社会を3年間経験してからやりたいことをしなさい。日本の社会構造を知りなさい。」という両親の教えのもと、私はその考えに賛同し、就職戦線へ。

出身大学に関わらず、就職活動に失敗する事例をたくさん見聞きし、自分自身も志望した企業に落ちたり、一喜一憂の毎日でした。

若年層の非正規雇用やいわゆるワーキングプア、フリーター、ニートなどが急増しだした時期で、私が政治家となってから新たな課題が出てきました。

自分自身も大変な苦労をしたことから、中小企業支援として良質な雇用の創出と働き方改革に取り組んでいます。

2005年に津田塾大学を卒業後、大手物流の山九株式会社に入社し、入社直後は代表取締役副社長専属秘書として従事。
その後、専務取締役、監査役の秘書も任命され、最終的には計6名の役員秘書として働きました。

秘書業務のほか、一般管理費などの予算管理なども担当し、全体を見渡す能力を培ったとともに、あらゆる部署との連携、そして部内のコミュニケーションなどを重視したことで信頼関係を築きながら仕事を進めていくことの大切さを感じました。

秘書部の予算管理を担当し、毎年2月と3月は夜遅くまで仕事をしていました。
この経験が予算委員会や決算審査での質問の仕方に大いに役立っています。

秘書部では礼儀作法も求められるため、在職中に秘書検定2級を取得。
日系企業内の組織の上下関係や立ち振る舞いも学ぶことができました。

我孫子駅前にて水野友貴の写真

毎朝、東京にある本社に、満員電車(常磐線、山手線、地下鉄)で我孫子駅から通勤していた私は電車の本数や駅の利便性について思うところがありました。
中学、高校、大学、会社とすべて電車通学・通勤の当事者であった私は、まさにサラリーマンの味方として議員に当選してからは「電車問題」に取り組んでいくこととなります。

そして、両親との約束から3年。私は政治経済に強い関心を持ち、報道に携わりたいという気持ちから転職することに。

転職を機にニューヨークへ。
飛行機の予約だけして、自分の英語力とコミュニケーション力でニューヨーク中をまわり、一人だからこそ学んだことがありました。
自由と孤独の中で感謝の気持ちを再確認できたこの旅行は私の糧となっています。

ニューヨークにて水野ゆうきの写真

テレビ局報道局時代
BSフジ「PRIME NEWS」のキャスティングを担当

報道局時代の水野ゆうきの写真

はじめは報道局経済部に所属し、東証日経平均の中継を担当しました。毎日専門家をお呼びしての生放送なので責任感を持って仕事に携わりました。報道は突発的且つ不規則なので、特に体調管理は気を付けるようになりました。

番組企画ではワークライフバランスの先進的企業を取り上げ、今後の育児の在り方などを報道番組で提言したり、年末年始の特番では斬新な商品開発をしている企業などを提案して2年連続で企画が採用されるなど、オンエアにつなげることでメディアを通して情報を伝えてきました。たくさん取材にも行き、現場の声をキャッチすることの大切さは報道機関で学びました。

その後、BSフジ『PRIME NEWS』(毎日2時間の生放送番組)を立ち上げることとなり、出演者交渉役を担いました。現在も続いている長寿番組です。

その日のニュースによって予定していたテーマをキャンセルし、急きょ出演者が変わることもあるので、24時間携帯を離せず、議員会館に詰めている状態。
閣僚、政治家、企業のトップ、専門家などその道のプロフェッショナルに出演を交渉する役割でしたので、毎日外回りでした。

自分の提案した企画や出演者が通った際の喜びは計り知れないものでした。

取材や出演交渉をしていく中で、女性の少なさを実感し、女性活躍推進の重要性を痛感しました。日本社会に必要なことは意識改革と環境整備であると再認識しました。

市議時代

3.11を経験し、最年少候補として我孫子市議会議員選挙へ!
完全なる無所属で出馬し、3,016票獲得で当選!

報道番組で多くの政治家に番組の出演交渉を行う上で、政治構造(国政・地方政治)や政治政策が与える経済への影響等について改めて勉強していました。
そして、報道に携わり、国会議員と接する中「君!政治家に向いているよ!」と声をかけていただくことが増え、政治家という選択肢が広がったのです。

そして2011年3月11日、東日本大震災。
私は仕事で衆議院議員会館にいました。我孫子に帰宅するために携帯で情報を得ようとするも我孫子市のホームページはダウン。当時の我孫子市はまだまだSNSが未発達。一方で、積極的に発信している自治体もありました。自治体の情報発信能力の差で人の生死までも分けてしまうことを実感しました。

3.11により、不思議と「私がやらなくては!」と自分の中で何かが動きました。
震災を契機として、これからの時代は地域の力が重要であることを実感し、国政ではなく地方議員を目指すことを決意。
3.11の出来事から我孫子市の情報行政を前に進めたいと強く思い、政策の実現につなげ、千葉県議会議員として防災対策に力を入れるために総務防災常任委員会に所属しています。

市議時代の水野友貴、駅頭活動の写真

2011年11月13日投開票の我孫子市議会議員選挙に最年少候補者として挑戦。

3,016票いただき、第3位で初当選することができました!
完全無所属、どこの政党、組織からの応援もいただかず若い世代を中心としたボランティアやインターン生で我孫子市議会議員選挙に初挑戦しました。

特に「無所属」ということにこだわりました。
報道で仕事をしていた際に、議院内閣制で政党政治である国政と、基礎自治体としてまちづくりを担う二元代表制の地方政治は全くの別物であることを再認識したからです。

政党にとらわれないこと、市民の代弁者であること、あくまで我孫子市のまちづくりをしていく仕事であること、そのためにしがらみは必要ないという考えは今でも根付いています。

選挙直前に母の病気が見つかり、大手術が決まったために出馬を取りやめようと思っていました。しかし、両親に背中を押され、出馬を決意!
一度も選挙に関わったこともない私。家族で公職選挙法を勉強しながら、トレードマークの赤い自転車で四小時代の同級生と我孫子市中を駆けずり回り、毎日数えきれないほどの演説を行いました。

多くの若い世代が協力してくれた初選挙。
投票率が低い若い世代でも自分自身の生活に直接かかわるということを一生懸命訴えることで、想いが伝わることがわかりました。
思い出すだけで涙が出るほど、苦しく、同時に嬉しかったです。
我孫子市民の皆様からいただいた勇気を水野ゆうきは決して無駄にはしません。

我孫子市議会議員時代
最年少・女性・無所属の我孫子市議会議員として

市議時代も議会では必ず質問に登壇していた水野友貴の写真

市議会では無所属の先輩議員と会派を組み、議会運営委員会、予算審査特別委員会、決算審査特別委員会、議会改革特別委員会、放射能対策特別委員会、教育福祉常任委員会、総務企画常任委員会の委員を歴任し、時には厳しく行政に改善や是正を求め、また数々の政策提案をし、実現に結びつけました。

地方議員を身近に感じていただくため、そして地方議員の仕事を理解してもらうためにも細やかな地域活動を大切にしてきました。さらには、若い世代や新しい層に政治に関心を持っていただくためにあらゆる形でSNSはほぼ毎日更新し、議員・議会・行政の見える化を積極的に図ってきました。

水野友貴の市議時代、駅頭でチラシを配る写真

一方で3.11による指定廃棄物問題や手賀沼の特定外来生物の繁茂など、千葉県が絡む複雑な問題が出てきました。
我孫子市は千葉県の提示により、柏市・松戸市・流山市の高濃度放射性物質を含んだ指定廃棄物を手賀沼終末処理場に運び込まれた経緯があります。

特に我孫子市には千葉県が管轄している案件が多くあり、県や県議との関係で基礎自治体は大きく影響を受けます。手賀沼、我孫子市の生活主要道路である国道356号やけやきプラザなども県管轄です。

しかしながら、我孫子市から選出されている2名の県議のうち1名は国政出馬で不在となり、我孫子市だけではなかなか解決できない県に関する課題が紛糾し、市議会の中で県議会の話題が多くなっていったのです。

県議当選・現在~

千葉県議会議員(我孫子市選出)へ
千葉県議会議員選挙に異例の完全無所属として出馬・当選!

県政は市民・県民にとって遠い政治と言われています。
しかし、実際は全くそんなことはないことを市議時代に知りました。

これまで自民党と民主党(当時)が分け合ってきた我孫子市選挙区の2議席。
無投票の可能性が高くなり、有権者の皆様が選ぶことすらもできないという状況を打破するために、市民の皆様からの後押しがあって退路を断って出馬を決意。

自ら市議として取り組んできた、指定廃棄物問題、国道356号及び県道における歩道のバリアフリー化(請願の紹介議員)などを直接県に物申していく立場を掲げ、政党に頼らない県議会議員選挙としては異例の完全なる無所属で出馬しました。

ボランティアによる手作り選挙を行い、極力お金をかけずに県政に向けた政策と市議会の活動をマイク1本で訴える選挙戦を戦い抜きました。

そして、13,261票いただき、当選!

無所属の女性最年少県議誕生と大きく報道されました。

【1期目】無所属・女性最年少の千葉県議会議員として

千葉県議会にて質問に登壇する水野友貴の写真

当選したものの、無所属の少なさと自民党の圧倒的な数に驚愕しました。さらに、無所属に加えて女性最年少という議会の世界では全く武器にならない肩書が重くのしかかりました。そんなアウェイな中でもへこたれず、無所属の議員同士で会派「千翔会(せんしょうかい)」を結成し、無所属ならではの是々非々の立場から千葉県政・千葉県議会に働きかけました。

活動内容は市議時代と同様に積極的に県政の情報や実態、自分の想いや意見を発信し、「見える化」活動を行うことで県政・県議会を身近に感じてもらうよう尽力しました。若い世代に地方政治への理解や関心を深めてもらうために大学で講義を行うなど、投票率の向上にも努めています。市議から県議と変わっても、議会毎の駅頭や議会報告は欠かさず行いました。

県議会議員として駅頭活動をする水野友貴の写真

新たな試みとして、若い世代とともに我孫子市のPR動画を制作したり、県政報告会を学生主導で行うなど、政治に遠い世代と地方政治をつなぐことで、全世代が関わる街づくりを目指しています。
東洋大学をはじめ様々な大学にて毎年講義を行うなど、3期目の現在も教育の場でも若い世代とつながっています。

1期目は市民の皆様とお約束した通り、我孫子市選出の県議として指摘廃棄物問題や手賀沼の特定外来生物の駆除は継続して取り上げ、予算化や改善に努めました。

そして地域をくまなく歩き、皆様の声も欠かさずに拾ってきました。

道端にて県民の方のご意見をうかがう水野友貴の写真

また、県議会議員という立場から、仕事の幅が広がり、東京2020にも大きく関わることになりました。
フェンシングが千葉県で開催されることが決定したことにより、友人の太田雄貴氏(日本フェンシング協会会長・メダリスト)とともに千葉県内のフェンシング学校訪問を森田知事に直談判して実現するなど、活動の範囲をどんどんと広げていきました。

日本フェンシング協会会長太田ゆうき氏と水野ゆうき千葉県議会議員の写真

【2期目】現職として日々の活動実績を評価していただき
2期目トップ当選!

県議選で当選し万歳三唱する水野友貴の写真

2期目を目指す選挙も完全無所属として、ボランティアの皆さんとの手作りでの挑戦でした。
自民党(現職3期・国政の政権与党)、立憲民主党(元市議、国政野党第1党、同年我孫子市長選出馬)、そして完全無所属の水野ゆうきの三つ巴となった選挙戦は、千葉県内で注目の選挙区としてマスコミでも注目されました。

市民・県民の皆さまの声を県政に反映した実績と、選挙期間以外でも活動報告を行ってきた姿勢などを評価していただき、我孫子市選挙区の県議選史上最多得票の17,243票をいただきトップ当選を果たすことができました。

当選後は千葉県に直撃した複数の台風からの復興、新型コロナウイルス感染症対策など喫緊の課題に直面しました。
皆様のご意見に耳を傾け、行政に改善を求めたり、支援策や現状をつぶさにSNS等で発信していました。

令和3年に千葉県知事選挙が執行され、熊谷俊人候補(現知事)を全面的に支援し、新しい知事を迎えての新しい形での県政が始動しました。

議会にて質問する水野友貴と答弁する熊谷俊人知事の写真

2期目の大きな実績のひとつは東葛北部医療圏における病床確保です。
特に我孫子市においては高齢化率、搬送人員に対する高齢者の割合、救急搬送人員、急性期件数は東葛北部保健医療圏の市の中でも高く、熊谷知事に病床整備を要望していました。そこで、我孫子市を含む東葛北部保健医療圏(松戸市・野田市・柏市・流山市・我孫子市)では847床整備し、我孫子市の病院には新たに50床配分されました。医療問題は毎議会、必ず取り上げている分野です。
さらに、休校が長期間に及んだことから児童生徒の教育環境に地域差が出ないよう、ICT教育の推進には力を入れるとともに、県庁におけるDX化の推進も提言をしました。

もっとも大きな成果は手賀沼の環境保全です。
私が政策の一丁目一番地としている手賀沼及び印旛沼に急繫茂したナガエツルノゲイトウやオオバナキンバイ等の外来水生植物対策として、令和6年度に予算を7億4千2,613千円(令和5年度は3億7千4,316千円)と大幅に増やすことができました。
熊谷知事に手賀沼の現地を視察していただき、外来水生植物の繁茂状況や駆除方法を実際に確認していただいたことで予算に繋げることができました。

【3期目】着実に実績を積み重ね、全県的に取り組みを加速!

全力で選挙戦を闘う予定でしたが、3人目が立候補せず、立候補届を行った日に無投票当選が決まりました。私は有権者から選ばれた政治家が政治を行うべきであり、「選挙はすべき」という考え方の持ち主ですので、無投票となったことは残念でした。
一方で、お預かりした議席に価値を持たせ、全力で千葉県民のために働くことを誓いました。

千葉県議会代表質問にて登壇する水野ゆうき

3期目の現在は5人の無所属議員で構成する会派「千葉新政策議員団」を結成し、会派代表として、政党の力に頼らない、県民目線のしがらみのない県議会を目指し、日々奮闘しています。政局ではなく政策で千葉県の課題を解決し、千葉県の発展を目指すことをモットーとし、5人の力ですでに多くの実績を残しています。

さらには3期目からは交渉会派に成長したことから、毎議会すべての定例会にて代表質問を行うことができ、すべての委員会に正規委員として出席しています。
また、他会派とも協力しながら、ものごとを前に進めています。

地元・我孫子市のために前進した政策は「小児医療」と「手賀沼の環境保全」です。
県内でも特に相対的に小児科医が少ない区域とされる東葛北部医療圏。特に我孫子市は深刻で状況であったことから、小児科医不足解消のため、我孫子市・千葉県でそれぞれ補助のメニューを活用し、新たに小児科クリニックが開業され、さらに小児科が新設されました。

予算要望及び代表質問のたびに熊谷知事に要望を行い、千葉県には東葛北部医療圏など小児科医が相対的に少ない医療圏にある病院が県外から小児科医を確保する際に 必要な人件費の一部を支援する補助メニューを令和7年度から新たに創設していただきました。

手賀沼の環境保全については、湖沼における外来水生植物対策として大胆な予算編成をしていただき、外来水生植物の大規模駆除を行っていただきました。
一方で、小さな茎の断片から再生し、再生力と繫殖力が強力なナガエツルノゲイトウとオオバナミズキンバイは全県的、全国的な広がりを見せており、再繁茂しています。再繁茂箇所の駆除、農業水路における外来水生植物特別対策事業、情報収集体制の構築、市民団体の防除事業補助などあらゆる角度で支援の幅を広げ、手賀沼の環境を守るための支援を行っています。
もちろん私も手賀沼に入って駆除作業に取り組んでいます。

外来水生植物の駆除活動を手伝う水野友貴の写真

3期目は手賀沼エコマラソン(ハーフマラソン21.0975km)にもチャレンジ!
なにをどう頑張っても運動音痴の私。練習中になにもないところで派手に転び、膝を強打し、出走できないかと思いました。
しかし、熊谷知事からのバックアップもあり、なんとかギリギリ完走することができました!
沿道の皆様からいただいた応援が励みになりました。

手賀沼エコマラソンに出場した水野友貴と熊谷知事の写真

教育では県立学校におけるトイレの洋式化や空調整備といった学校環境の改善に加え、教員の未配置問題を皮切りにいじめ問題や不登校対策に注力しています。

教育問題は全県的に県民からご相談を受け付けています。

安全対策では通学路の危険個所を随時改善し、横断歩道等の補修、県立学校におけるヘルメット着用の義務化(令和8年度より)などの実績を積み重ねています。

さらには風通しの良い千葉県庁を目指し、ハラスメント対策やオフィス改革も推進しており、ハラスメント対策では我が会派が提案したことでハラスメントアンケートを初めて県で実施し、継続して行っています。ハラスメントのない県議会への道のりはまだまだ遠そうですが、県民目線の政策に強い無所属チーム一丸となって、先人が培ってきた人としてあるべき道徳・倫理を大切にしつつも、時代に即した新しい県政・県議会にアップデートできるよう、鋭意奮闘中です!

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