千葉県議会議員(我孫子市選出)
完全無所属
千葉県我孫子市根戸に生まれ、幼少時代は祖父母の住む白山で育ちました。
祖父は我孫子市立第二小学校の校長を務めるなど、東葛地域の各学校で校長をしていたことから、教育の課題や現状について関心がありました。家庭環境からも、教育についてはとても力を入れております。
小さな身体で生まれた私は、虚弱体質で泣き虫な子どもでした。医学の進歩がなければ、私は今ここにいないでしょう。
白山に引っ越し、我孫子市立第四小学校に入学しましたが、友達が一人もいないまま入学した私は、学校に行っても泣いてばかり・・・。太陽を浴びてはいけなかったことから、夏でも長袖長ズボンの幼い私は、そのことを指摘されるたびに傷ついていたことを今でも鮮明に覚えています。たくさん傷ついたからこそ、差別やいじめは絶対に根絶したいと思っています。
小学3年生のときに、父親の仕事の関係でアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスに移住。もちろん一言も英語を話せませんでしたが、両親の教育方針により日本人学校ではなく、現地校RIVIERAエレメンタリースクールに編入。
現地校では右も左もわからない中で、生の英語と文化を学び、ハローウィーンなどさまざまなイベントを経験しました。基本的にはディスカッション方式の授業で、フレンドリーな環境。まさに海外ドラマのような学校生活でした。
米国では里親制度も定着しており、様々な家庭環境の友人ができたことや多種多様な人種が混在する現地校での経験は、私が日本で政治活動を行う上で、貴重な体験となっています。
何よりも、異文化を体感したことで多角的に物事を捉える力、そして自立心を培いました。集団行動のない米国では「個」が尊重されます。団体行動をしなくても、組織に頼らなくても、自分の力や考えに責任を持って生きていくメンタルの強さは現在、私が無所属で活動していることに繋がっています。
現地校ではたくさんの友達も作り、自宅から1分のレドンドビーチでローラーブレードで遊んだり、プールで思い切り泳ぎ、のびのびとした毎日を過ごしていました。
両親は私を米国内の様々な場所へ連れていき、グランドキャニオンやヨセミテ、ホワイトサンズなど圧巻の景色を目の当たりにし、地球の大自然に感動しました。そして、地球という存在自体に関心を持つようになり、環境問題を大学で学ぶこととなります。
現地校の小学校を卒業後、インターナショナルスクールに編入し、なんと学年で女子1人という厳しい環境下で過ごしました。男女関係なく、助け合い、協力しあうことの大切さを学びました。難しい年頃でしたが、米国の文化にも助けられました。しかし、帰国後は米国とは全く異なる価値観の「性差」に悩まされることになり、私が政治の世界で「男女共同参画」を積極的に取り上げる大きな契機となりました。
こうした海外での経験は文章におさめ、17万人の応募の中から郵政大臣賞を受賞いたしました。自分の言葉が人に与える影響を肌で感じたとともに、文章を書いたり、読んだりする楽しさ、言葉の面白さを知った米国での中学時代でした。だからこそ、私は議会における一般質問や議会報告、SNS等は脚色なくすべて自分の言葉で発信しています。
私のことがロサンゼルスの新聞やラジオでも取り上げられていたときはとても驚きました。ラジオで自分の作文を読んだときはとても緊張した記憶があります。
中学2年で日本に帰国し、茨城県私立茗渓学園中学校の編入試験に合格するも、やはり長期間米国にいた日本の勉強のロスを取り返すのは大変!毎日必死で勉強しました。勉強だけでなく、茗渓学園名物でもある4km遠泳も完泳し、剣道の寒稽古、真冬の座禅もやり遂げたことで体力のみならず精神力も養いました。
校則に従い、同じ制服を着て、団体行動をする、という習慣になれるまで最初は時間がかかりました。しかし、大好きな日本で暮らす意味も同時に自分に問いかけ、日米両国の良いところを自分の中に落とし込むことで生き方を柔軟にしていくようになりました。自分の根幹である信条さえブレなければ、すべての努力や経験は糧になり、あらゆる経験をさせてくれた両親に感謝しています。
米国では本格的な体育は縁遠かったのですが、茗渓学園では運動にも励み、相手を思いやること、練習を怠らないこと、本番に向けてのメンタルやフィジカルトレーニングなどを学ぶことができました。また、人を全力で応援することの大切さも茗渓学園で得た大きな財産となっています。
茗渓学園ではStudySkillsの集大成として高校2年生が「個人課題研究」を行います。これは「17才の卒論」とも呼ばれ、各個人で興味を持ったテーマを独自に準備し、課題指導者(各教科教員)の指導のもとで、1年間にわたり生徒自身が考え、調査・研究を行うというものです。私は米国で少なからず感じた人種差別問題を取り上げました。
多くの書物の中でもアリス・ウォーカーの『カラーパープル』を読んだことで黒人女性の差別の歴史を学び、性別の違いや肌の色の違いが招く差別問題への意識が更に高くなりました。
高校3年になると受験を控え、浪人をしたくない私は日本の勉強が遅れながらも受験一筋の生活に一変。日本の詰め込み教育や暗記中心の受験に疑問を持ちながらも、これまで私が関心を持っていたことを研究できる大学を志望するようになりました。
2001年茗渓学園高等学校卒業。
茗渓学園を卒業後は、津田塾大学学芸学部国際関係学科に入学しました(国際法・政治コース)。
アメリカでの経験が功を奏し、英語クラスは飛び級し、資格取得とアルバイトに励みました。特に印象に残っているアルバイトは三つ子のベビーシッター。子どもの無邪気な言動に幸せをもらっていました。同時に、子育ての大変さを知ったのもこの仕事がきっかけでした。買い物に行くにしても、ご飯を作るにしても、寝かしつけるにしても、遊ぶにしても、3人同時に目を離さずにいなくてはならないそのプレッシャーは想像を絶するものだと感じました。(今は双子の甥と姪の育児を手助けしています。)
アルバイトで貯めたお金で様々な国に旅行に行きました。イタリア、フランス、スイス、オーストラリア、中国、韓国など友人とともに各国の文化を垣間見ることができ、グローバルな視点を養いました。
卒業論文は『環境ホルモンが人間に与える影響』。米国で知った環境問題を軸に私たちの身近なモノがいかに私たちの健康に影響を及ぼしているかを研究し、A4、100枚程度の論文を執筆。この研究は議員活動にも反映されています。
津田梅子女史が創立した女子英学塾から120年(2020年)。津田塾大学はあらゆる分野で女性の開拓者やリーダーを輩出してきました。しかし、いまだに男女格差を示す「ジェンダー・ギャップ」指数は2019年時点で日本は未だに153カ国中121位です。街づくりを行う大きな一翼を担う政治の世界で、女性や子育て世代の声を反映させていくことが重要です。
2005年3月に同校卒業。
水野ゆうきは津田塾大学120周年記念に際し、津田塾大学卒業生のロールモデル120名に選ばれました。
私の時代は「就職氷河期」でもあり、採用すら行わない企業がたくさんありました。「日本の企業で日本の社会を経験してからやりたいことをしなさい。日本の社会構造を知りなさい。」という両親の教えのもと、私はその考えに賛同し、就職戦線へ。
出身大学に関わらず、就職活動に失敗する事例をたくさん見聞きし、自分自身も志望した企業に落ちたり、一喜一憂の毎日でした。
若年層の非正規雇用やいわゆるワーキングプア、フリーター、ニートなどが急増しだした時期で、私が政治家となってから新たな課題が出てきました。
ひきこもりの4分の1を占めるのが、2000年前後に大学を卒業し、就活の失敗などを機にひきこもり状態となった「ポスト団塊ジュニア」ということ。
自分自身も大変な苦労をしたことから、ひきこもり対策に力を入れるようになりました。
大手物流会社に入社し、入社直後は代表取締役副社長専属秘書として従事。その後、専務取締役、監査役の秘書も任命され、最終的には計6名の役員秘書として働きました。
秘書業務のほか、一般管理費などの予算管理なども担当し、全体を見渡す能力を培ったとともに、あらゆる部署との連携、そして部内のコミュニケーションなどを重視したことで信頼関係を築きながら仕事を進めていくことの大切さを感じました。
部署の予算管理を担当し、毎年2月と3月は夜遅くまで仕事をしていました。この経験が予算委員会での質問の仕方に大いに役立っています。
秘書部では礼儀作法も求められるので、秘書検定2級を取得。日系企業内の組織の上下関係も、立ち振る舞いも学ぶことができました。
毎朝、東京にある本社に、満員電車(常磐線、山手線、地下鉄)で通勤していた私は電車の本数や駅の利便性について思うところがありました。中学、高校、大学、会社とすべて電車通学・通勤の当事者であった私は、まさにサラリーマンの味方として議員に当選してからは「電車問題」に取り組んでいくこととなります。
そして、両親との約束から3年。私は報道に携わりたいという気持ちから転職することに。
転職を機にニューヨークへ。飛行機の予約だけして、自分の英語力とコミュニケーション力でニューヨーク中をまわり、一人だからこそ学んだことがありました。自由と孤独の中で感謝の気持ちを再確認できたこの旅行は私の糧となっています。
はじめは報道局経済部に所属し、東証日経平均の中継を担当しました。毎日専門家をお呼びしての生放送なので責任感を持って仕事に携わりました。報道は突発的且つ不規則なので、特に体調管理は気を付けるようになりました。
番組企画ではワークライフバランスの先進的企業を取り上げ、今後の育児の在り方などを報道番組で提言したり、年末年始の「景気回復テレビ」では斬新な商品開発をしている企業などを提案して2年連続で企画が採用されるなど、オンエアにつなげることでメディアを通して情報を伝えてきました。たくさん取材にも行き、現場の声をキャッチすることの大切さは報道機関で学びました。
その後、BSフジ『PRIME NEWS』(毎日2時間の生放送番組)の出演者交渉役を担いました。
その日のニュースによって予定していたテーマをキャンセルし、急きょ出演者が変わることもあるので、24時間携帯を離せない状態。閣僚、企業のトップ、評論家などその道のプロフェッショナルに出演を交渉する役割でしたので、毎日外回りでした。
自分の提案した企画や出演者が通った際の喜びは計り知れないものでした。
ワークライフバランスの取材や政治家・専門家への出演交渉をしていく中で、これからは女性の社会参画の重要性を実感しました。今の日本社会に必要なことは意識改革と環境整備です。
報道番組で多くの政治家に番組の出演交渉を行う上で、政治構造(国政・地方政治)や政治政策が与える経済への影響等について改めて勉強していました。そして、報道に携わり、政治家と接する中で自分の中で確固たる気持ちが芽生え始めていました。
そして2011年3月11日、東日本大震災。
私は仕事で衆議院議員会館にいました。我孫子に帰宅するために携帯で情報を得ようとするも市のホームページはダウン。SNSも未発達の我孫子。自治体の情報発信能力の差で人の生死までも分けてしまうことを実感しました。
3.11により、不思議と「私がやらなくては!」と自分の中で何かが動きました。
震災を契機として、これからの時代は地域の力が重要であることを実感し、国政ではなく地方議員を目指すことを決意。3.11の出来事から我孫子市の情報行政を前に進めたいと強く思い、政策の実現につなげ、千葉県議会議員としても防災対策に力を入れています。
2011年11月13日投開票の我孫子市議会議員選挙に最年少候補者として挑戦。
3016票いただき、第3位で初当選することができました!
完全無所属、どこの政党、組織からの応援もいただかず若い世代を中心としたボランティアやインターン生で我孫子市議会議員選挙に初挑戦しました。
特に「無所属」ということにこだわりました。報道で仕事をしていた際に、議院内閣制で政党政治である国政と、街づくりを担う二元代表制の地方政治は全くの別物であることを再認識したからです。
政党にとらわれないこと、市民の代弁者であること、あくまで我孫子市の街づくりをしていく仕事であること、そのためにしがらみは必要ないという考えは今でも根付いています。
家族の大きな手術が重なり、出馬を取りやめようと思っていた矢先に両親に背中を押され、出馬を決意!一度も選挙に関わったこともない私。家族で公職選挙法を勉強しながら、トレードマークの赤い自転車で四小時代の同級生と我孫子市中を駆けずり回り、毎日数えきれないほどの演説を行いました。
多くの若者が協力してくれた初選挙。投票率が低い若い世代でも自分自身の生活に直接かかわるということを一生懸命訴えれば伝わることがわかりました。思い出すだけで涙が出るほど、苦しく、同時に嬉しかったです。我孫子市民の皆様からいただいた勇気を水野ゆうきは決して無駄にはしません。
市議会では無所属の先輩議員と2人で会派を組み、議会運営委員会、予算審査特別委員会、決算審査特別委員会、議会改革特別委員会、放射能対策特別委員会、教育福祉常任委員会、総務企画常任委員会の委員を歴任し、時には厳しく行政に改善や是正を求め、また数々の政策提案をし、実現に結びつけました。
地方議員を身近に感じていただくため、地方議員の仕事を理解してもらうためにも細やかな地域活動を大切にしてきました。そして、若い世代や新しい層に関心を持っていただくためにSNS(ブログ、Facebook、twitter等)はほぼ毎日更新し、議員・議会・行政の見える化を積極的に図ってきました。
一方で3.11による指定廃棄物問題や手賀沼の特定外来生物の繁茂など、千葉県が絡む複雑な問題が出てきました。我孫子市は千葉県の提示により、柏市・松戸市・流山市の高濃度放射性物質を含んだ指定廃棄物を手賀沼終末処理場に運び込まれた経緯があります。
活動実績「手賀沼終末処理場に保管されている下水汚泥焼却灰の指定廃棄物について
我孫子市には千葉県が管轄している案件が多くあり、県や県議との関係で基礎自治体は大きく影響を受けます。国道356号やけやきプラザなども県管轄です。
活動実績「国道356号及び県道整備・歩道のバリアフリー化の進捗」
活動実績「千葉県と我孫子市の複合施設『けやきプラザ』について」
しかしながら、我孫子市から選出されている2名の県議のうち1名は国政出馬で不在となり、なかなか解決できない中でも県に関する課題が紛糾し、市議会の中で県議会の話題が多くなっていったのです。
県政は市民・県民にとって遠い政治と言われています。しかし、実際は全くそんなことはないことを市議時代に知りました。
これまで自民党と民主党が分け合ってきた我孫子市選挙区分2議席。更に無投票の可能性が高くなり、有権者の皆様が選ぶことすらもできないという状況を打破するために、市民の皆様からの後押しがあって退路を断って出馬を決意。
自ら市議として取り組んできた、指定廃棄物問題、国道356号及び県道における歩道のバリアフリー化(請願の紹介議員)などを直接県に物申していく立場を掲げ、政党に頼らない県議会議員選挙としては異例の完全なる無所属で出馬しました。
ボランティアによる手作り選挙を行い、極力お金をかけずに県政に向けた政策と市議会の活動をマイク1本で訴える選挙戦を戦い抜きました。
そして、13,261票いただき、当選!
無所属の女性最年少県議誕生と大きく報道されました。
現在、無所属の議員同士で会派「千翔会(せんしょうかい)」を結成し、無所属ならではの是々非々の立場から千葉県政・千葉県議会に働きかけ、活動内容は市議時代と同様に積極的に情報や自分の想いや意見を発信しています。
「見える化」活動を行うことで県政・県議会を身近に感じてもらうよう尽力しており、若い世代の地方政治への理解や関心を深めるために大学で講義を行うなど、投票率の向上にも努めています。市議から県議と変わっても、議会毎の駅頭や議会報告は欠かさず行いました。
新たな試みとして、若い世代と我孫子市のPR動画を制作したり、県政報告会を学生主導で行うなど、政治に遠い世代と地方政治をつなぐことで、全世代が関わる街づくりを目指しています。東洋大学にて毎年講義を行うなど、教育の場でも若い世代とつながっています。
1期目は市民の皆様とお約束した通り、我孫子市選出の県議として指摘廃棄物問題や手賀沼の特定外来生物の駆除は継続して取り上げ、予算化や改善に努めました。
また、県議会議員という立場から、仕事の幅が広がり、東京2020にも大きく関わることになりました。フェンシングが千葉県で開催されることが決定したことにより、友人の太田雄貴氏(日本フェンシング協会会長・メダリスト)とともに千葉県内のフェンシング学校訪問を森田知事に直談判して実現するなど、活動の範囲をどんどんと広げています。
2期目を目指す選挙も完全無所属として、ボランティアの皆さんとの手作りでの挑戦でした。自民党(現職3期・国政の政権与党)、立憲民主党(元市議、国政野党第1党、同年我孫子市長選出馬)、そして完全無所属の水野ゆうきの三つ巴となった選挙戦は、千葉県内で注目の選挙区としてマスコミでも注目されました。
市民・県民の皆さまの声をしっかりと県政へと届けてきた実績と、選挙期間以外でも皆様にしっかりと活動報告を行ってきた姿勢などを評価していただき、17,243票をいただきトップ当選を果たすことができました。
当選後は千葉県に直撃した複数の台風からの復興、新型コロナウイルス感染症対策など喫緊の課題に直面しています。皆様のご意見に耳を傾け、行政に改善を求めたり、支援策や現状をつぶさにSNS等で発信しています。特に、休校が長期間に及んだことから児童生徒の教育環境に地域差が出ないよう、ICT教育の推進には力を入れていかなくてはなりません。
選挙公約に掲げた10本の政策の柱を軸として、県議の立場から全力で取り組んでまいります。
こうした水野ゆうきの政治活動や取り組みは数々のメディアにて取り上げられています。
水野ゆうきは千葉県・県民、我孫子市・市民を大切にする政治を行ってまいります。
また二元代表制という地方政治の仕組みからも、政党や組織はしがらみに過ぎないという考えから、
地方政治における選挙では政党の公認、推薦、支持はお断りしています。